昭和49年11月5日 朝の御理解



 御理解 第66節
 「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わ  ずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日  柄も何も言わずに駆けっていぬる。」

 日々が充実した有り難い、又は勿体ないと言うて暮らさせて頂けれる、この世に生を受けながら日が良いの悪いのと、いうなら不平不足だらだらで一生を終わっていく人の姿、人間の有様。そういう人の世のはかなさと言った様なものを、この御理解の中から、今日は、しきりに感じるです。なるほど御道の信心は日柄方位を言わん。迷信的な事を言わない。迷信を言うて過ごす者の、つまらなさというかそういう意味も、ここには強くそれになると、ちょっと皮肉な感じが致しますね。
 教祖様は信心のない者を皮肉っておられるような感じがする。けれどもその頂き方ですね、今申しますように、日柄も何にも言わずに駆けっていぬると。生まれてくる時には、日柄も何にも言わんでおりながら。そんなら死ぬる時にも、何の日が良いの何の日が悪いのと、自分で選って生まれてきたり、選って死んで行けれるならいいのだけれども。そう言う事が出来ない世の中に住みながら、途中ばかりをあぁのこぉのと、自分で理屈をつけたり、不平不足を言わねばならないような状態の中に。
 がんじがらめにくくられておる人間の、いうならば哀れを感じて、こういうみ教えを下さっておるという風にも頂けます。御道の信心をいただいておっても、矢張りそこの所から抜け切れないで、それこそ日々を有難い勿体ないで、過ごしていけれる道におりながら、その道を踏まない所に、あられもない苦労をしていかなければならない。確かにこの世にはいわば神愛が充満しておる世の中。その神愛を神愛として受けて立たせて頂けれる所に、有難い本当に勿体ない事だという生活が出来る。
 そういう生活を目指すと言う事が御道の信心の、私は願いでありまた目指しであると思うのです。ただ一時的なそこの所を良くなっても、ようならんの都合が良いの悪いのと言うて、それをお取次ぎを頂いておかげを頂いていくと言った様な、目先目先の事のおかげに終始したのでは、例えば今日のみ教えの私は深さとか、広さというものは分からない。金光様の信心する者は、日柄とか方位とか言わずに、有難い毎日を送らねばいけないぞと。信心の無い者は、気の毒な事じゃ生まれてくる時には、日柄も言わず。死んでいく時にも日柄も言われない。
 それが人間の定めであるにもかかわらず、その中間だけをあぁのこぉのと言う様な生き方は、こんな不自然な生き方はないぞと教えておられる。そこでです私がいつも申します様に、自然に溶け込むという生き方。そこには自然が何時もバックである。いわゆる自然を生かす事が出来るというのである。天地の親神様の懐の中にです。あるんだなぁと言う実感を、いつも心に感じさせて頂けれる生き方。そこには万事万端の上にお都合お繰り合わせが頂けれる。例えば出産であってもです。
 丁度都合の良い日の都合の良い時間にお繰り合わせが頂けれる。死ぬると言うてもです、もう本当に都合の良い時にです。都合のよい日柄にお国替えのおかげが頂けれる。是はいわば成り行きを大切に尊んで、自然の働きそのものに溶け込む様な生き方をした人達の上には、それが出来るのが、金光教のおかげである。はぁ取り上げの真っ最中に、隣の婆さんな死なさったけん、近所迷惑と言われるごたる事じゃいけないと言う事なんです。今頃はどこでもそのお産といや、産婦人科病院でやりますから。
 昔は門内の人達が集まって、色々お世話をしました。はぁもうこの田植えの真っ最中に、産んじゃったけん、もう大ごつち言うちから、不平不足言われんならんような事じゃいけんと言いござる。やっぱあっちは信心しござるけん、もう本当に都合の良い時に生まれて、都合の良い時に死んで行けれるような、お繰り合わせを頂くために、途中を大事にしなければならないと言う事です。途中を大事にすると言う事は、私はその自然に溶け込むと言う事だと思う。
 昨夜私がお広前に出てきたのは、十一時頃か十二時頃にかけてでした。こっちへ出かけて来よりましたら、二階で忙がましゅう言いよりますもん。二階でテレビでもなからな、ラジオでもなかろうごたるから、ちっと耳すませた所が、昨日山田先生と頃の修行生が来とります。ちょっと頭が可笑しいんです。ばってんあげん業らしゅうは言わんと思いよったけど、ここで暫く修行したいというから、いいたいと言うて引き受けたもののです。女の修行生の方達の、確か部屋だったでしょうが。
 女の修行生の、上野先生と田中さんと二人で休んでおり三人休んでおる。晩なんか休まれる段のこっじゃなかごと思うてですね、ギャーギャー言ってますから。私はハシゴの下から、じっと御祈念させて貰うて、それから御祈念を終わらせて頂いてましたら、もう静かになって休んでおる。しばらくここへ来てきて見ましたら、もう折り合って休んでおる模様でございました。例えばほんなら上野先生田中さんが二人、はぁこげな修行生ばここに一緒に休まにゃんなら。
 今夜からもう寝られんという生き方は、自然の中に溶け込んだ生き方じゃないのです。例えばですほんならそれを、自分の妹とか自分の親身の者とか、自分の娘とかともし思うたら、どう言う事だろう。まぁ何と難儀な病気をしたものであろうかと。もうそれこそこの娘と一緒に、山奥にでも入って行きたい様な気がするだろうと。喧しゅうして寝られん所じゃない。本当にそれを祈り願い、一緒に苦労をしたい。そういう心が涌いてくるだろうと思う。信心とは私はそれだと思う。
 そこに難儀を感ずる、この難儀からただ抜け出ろう、抜け出ろうと言う事は、自然の中に溶け込んで行く生き方じゃないです。自然にそういう暑い寒いと言う様な事の中に、溶け込んでいくと言う事は、暑いも寒いも感じないほどしに、有難くなって来る事なんです。いやその寒いことが、暑いことが有難くなってくることです。自然に溶け込むと言う事は。それを自分の難儀を積んでから、捨てるような思いである。
 ただそれだけが、信心のように思うてはいけないです。今様々なお互い難儀を持っておるなら、その難儀の中に溶け込んでいくのです。それはいうならばこの難儀様のおかげで、信心が出来ますと言うような生き方が、私は自然に溶け込んで行く生き方。それを思う時にです。私のここ二十五年間の、信心を振り返ってみて、只々その生き方で来たなと、自分で思うです。そら困るばいそんなこっじゃでけんよと、言うてこなかったと言う事です。そこにですいわゆる自然が生きてくる、生かして下さる一切を。
 自然に溶け込んでいくと言う事は、自然を生かすと言う事なんです。私は御祈念を、今日終わってこんな事を頂いた。今ちょっと控えたんです。色はにおへどちりぬるを、色はこの色彩の色ですね。におうと言う事は色香の香です。色は香へど散る花が散るというあの散る。色は香へど散りぬるをよたれぞつねならむ、よたれよとは世界の世。たれは誰誰でもがです、そのそれが常の姿だと言う事です。例えば人間の色気というものは、死ぬまでだと言われております。
 そういう色気も散らぬ間にです。この世の中に生を受けて生まれてきて自分の、言うならば思うままにもならぬままにです。それが世の中の常だと。思う様にならぬが浮世だというのです。うぃの奥山今日越えてうぃのというのは、悲しいというか淋しいとか。うぃの奥山今日越えて、浅き夢見しうぇひもせすと。うぃの奥山悲しい一生というか奥山というのは、高い峰を越してという意味でしょう。あの世この世のいうなら境の峠を超えて、それこそ一生の事を振り返ってみる時に、浅い夢を見たようなものだと。
 浅き夢見しうぇひもせす。うぇひもせすと言う事は、人間の本当の幸せにもうぇひもせすと言う事である。最後に「ん」とひときばりで、あの世に皆が果てていかなければならんと言う意味なんです。私はこれを今朝頂いてからです。この六十六節のいうならば、信心のない者に対するこれは皮肉のようなふうに感じておったみ教えがです。実にね人の世の哀れさというか、はかなさというか、信心のない者の生き方の、その切ないまでの悲しさが、この六十六節に感じられるです。
 それこそ浅き夢見しうぇひもせす。あぁのこうの我情我欲ばっかり言うて、一生終わってきたが、さあ愈々あの世に行かなければならない時に、何を持っていくか。何にも持っていくものは無い。息が切れると言う事には、随分のそれこそ山登りのように、それこそ峠をそこの峠を、誰でもが越していかなければならない。最後の「ん」のひときばりで、あの世にやらせて頂くがです。ただ世の中はただ苦しい苦しい。それこそ林芙美子の詩ではないですけれど。
 ただ苦しきことのみ多かりきで、一生を終わっていかなければならない。こんな悲しい話があるだろうか。私は教祖様はそこを憂えられた、これはみ教えのように思う。そんな悲しい事で、皆が合点しておるのであろうか。太く短くもうこの世は自分の好き放題のことをしてと言った様な事を言うけれども。実際あの世に果てていく時にです「ん」と、ひと気張りさせて頂く時の、事を思うたらです。
 本気で私共がこの世にある時にです、本心の玉。言うなら魂を清めにも清めさせて頂いて、天地の親神様のお心を心として、いうならば成り行きを大事にさせて頂いて、自然に溶け込む生き方を、本当に身に付けて自然がいつも、私のバックだと思われるような日々をです。過ごさせて頂く時に日々が有難い、本当に勿体ないという一日になるのだ。そういう繰り返しを、おかげ頂いてこそ初めてです、それこそ大往生のおかげが頂けるだろう。皆にも迷惑かけんで済むだろう。
 本当に信心しござったけん違う。こういう有難い日に、お国替えのおかげを頂きなさったというような、おかげに繋がってくるのだ。そういう生き方こそです。あの世にも持って行け又は、この世にも残しておけれるようなものも、いうならばお徳を頂いていけれる生き方こそが、有難い勿体ないの生き方なんです。途中ばかり日柄方位を言うというのじゃなくて、もう降るも有難いなら、照るもまた有難い。ただ有難いだけでは分からんから、降る中に溶け込んでいく。
 照る中に溶け込んでいくという生き方を、身に付けていく生き方こそがです。教祖生神金光大神の、私は生き方であると思うのです。うぃの奥山今日越えて、浅き夢見しうぇひもせす。そういう尊い有難い日に会いもせずにです。この世を駆けていく人が、どの位沢山あるかと言う事です。そこで私共がおかげを頂いてです。そういうおかげの頂けれる道にあるのであるから。
 昨日は神愛会でございましたから、先生方に色々お話を聞いて貰いました中にです。合楽示現活動と言う事が、合楽という言葉が例えば合楽の者は、こよなく有難く思うけれども、合楽以外の方は、合楽と言う言葉が何かこうかつんとくるらしい。そこでほんなら金光示現活動という、金光教示現活動に参画すると言う事であっても良い。金光教の信心を頂いておる者でです。
 本当に御道の信心によって助かっておる。御道の信心によて一家が円満に行っておる。御道の信心によっておかげで薬箱も要らん位に、健康のおかげを頂いておるという人達が沢山あるだろう。だから示現活動というのは一通り一応はです。私はおかげを頂いておるという自覚に立たなければいけんのです。いわゆる極楽の宣言と言った様な事を申しましたね以前に。合楽に御神縁を頂いておるはあほんにそう言われてみるとです。
 合楽に御神縁をいただくようになって、まだ何年にしかならんのだけれども。第一家庭が争いのない家庭になっておるし。第一病気のない薬箱もなくなるほどしに、おかげをそ頂いておるし。経済の上でも巨万の富が出来たというわけではないのだけれども、その日その日の日暮しには事欠かないほどしの、金銭の送り合わせも頂いて、万事万端におかげを受けておる事に、改めて気付かせて頂いて。はぁこれが極楽というのであろうかと、改めて気付かねばいけない。
 そしてその極楽を合楽の世界に、進めていかなければならない。神様も助かって下さる氏子も助かっていく。合楽の世界にそれをもう一段進めていかなければならない。ためにはです。金光教の信心をさせて頂いておる者の中に、言われてみると成程自分の家は、おかげ受けておるなぁという人が、随分あろうと思うです。だからそういう人達が改めて、金光様のご信心によって、一家が助かっておるという自覚がありながらです。ただそこにじぃっと、極楽に居座りしているだけです。
 それをいわば、示現活動にもって行かなかったらです。それこそマイホーム的なおかげだけは頂いておってもです。それを世の中社会に広げて行こうというのが示現活動なのですから。先ずは自分が極楽を実感する。それは例えば、病気をしておっても、例えばいろんな難儀を持っておってもです。その難儀の中にいわゆる神愛と分かり、おかげと分かる時なのですから。
 そういう難儀の中に、溶け込んでいく自分。だからどうでも合楽の信奉者の全部がです。先ず極楽のおかげを頂いておるという自覚に立たせていただいての示現活動と言う事なのです。だからこれを金光示現活動と言う事も、御道の信奉者信心者がです。そういう先ず自分達がおかげで助かっておるというものを、それを周辺に広げていこうというのが示現活動なのです。私は今日の御理解を頂いて、愈々本当にです。
 そういう信心を日々の信心を、身に付けさせて貰うて。この世の哀れというかお互い一生をです。本当に浅き夢見しうぇひもせすと言う幸せに合う事も出来ずしてです。ただ夢ばかりを追うて来たと言った様な生き方からです。充実した日々を有り難い、本当にこういう勿体ない生き方をさせて頂いて、有り難しというおかげの頂けれる道を、先ず自分が頂いてその道を、私は周辺に伝えていこうという願い。
 そういう願いに、神様が応えまつられるのが示現です。神様が神仏が不思議な働きを示し現されると言う事が、示現と言われております。いうならばです。神様と私どもがです。運命共同体です。神様と私共が一緒になるです。一体になるという生き方です。そういう生き方をです。私共が身に付けて、それを現していくと言う事が、示現であり、その活動に参画させて貰う。
 そういう神様の願いに応えてです。新しい活動させて貰うそういう尊い信心に、参画さしてもらう、あづからせて頂くと言う事になるのです。私は今日の六十六節を頂いて、浅く広くまたは深、今日は聞いて頂いたつもりですが、皆さんの信心の心でどのようなふうに受け止められたか。これは愈々もって、極楽を示現して行く。先ずは自分が極楽にある自覚が、強く出来なければならない事を感じて下さったら、有難いですね。
   どうぞ。